山形久先生<喜寿祝賀会>とハンドボール部インターハイ優勝への軌跡
平成25年8月10日(土)、体育科の山形久先生の喜寿を祝う会がハンドボール部OB会の主催の下、観山荘別館にて行なわれました。私はハンド部OBではありませんが、出席した同期のハンド部マネージャー渡辺幸子さんからの写真や情報を基に当日の報告と、これを機会に昭和55年公立高校としてはあまり例のないインターハイで優勝した当時の様子を紹介したいと思います。
山形先生は、昭和39年西高に28歳で赴任され、昭和46年(24期生)からハンド部の監督に就任、以後昭和62年(41期生)まで17年間の長きに渡り指導されました。
祝賀会は、一次会は高校24期から40期まで55名、その後の二次会では24名の参加がありました。現在は岡垣町で息子さんご家族に囲まれてお住まいですが、当日は「こんなにたくさんの教え子が集まってくれて、きょうは人生で一番幸せな日。」と喜んでくださったそうです。先生の指導された17年間西高ハンド部は、県大会優勝6回・準優勝5回、そしてインターハイ優勝1回(昭和55年)・準優勝2回(昭和47年、48年)という、輝かしい成果を挙げました。西高といえばハンドと言われた時代でした。
高校生当時、登山部に所属していた私は夜行列車やフェリーに乗るため、夜遅くに学校に集合したことが何度かあります。一旦帰宅し食事をして学校に戻ると、グランドのすみで煌々と輝く照明の下、ハンド部が「ファイトーオ!」「エイ!エイ!ヤー!ヤー!・・・」と声を出しながら真剣な練習を行なっていて、驚いた記憶があります。練習を終え帰宅すると日付が替わっていたこともあったそうです。山形先生はいつもどっしりと座って最後まで練習を指導していました。
奇しくも同期が愛媛県で行なわれたインターハイでの優勝を成し遂げ、その瞬間緊急の校内放送が流され校内に大歓声が上がりました。その後、帰北してブラスバンド部の先導で魚町銀天街をパレードしました。当時のキーパーで祝賀会では司会を務めた山田俊朗君が、西高の出身だという方々から声を掛けられ祝福を受けたと嬉しそうに話していたことを覚えています。
8年前の津苑会当番期の準備中でも、ハンドが優勝した時の期と言えば大抵の方が覚えていて認識してくださりとてもやりやすく、また仕事の上でもその話題で会話が広がったことが何度もあります。それほどハンド部の優勝は、西高・津苑会のみならず、33期にとっての誇りでもありエポックメーキングな出来事でした。
現在でも西高の玄関横のガラスケースには、33年前のインターハイの優勝カップや写真が飾られています。(写真でシュートをしているのが当時のキャプテンで、今回の発起人の一人、33期当番期では実行委員長を務めた清家伸二君です。)
正直な話し、母校に33年経っても写真やカップが飾られているのは、ハンド部に続くその後がないということなので少し残念な気もします。写真の主の清家君も以前同じようなことを話していました。しかしその反面、いつまでもこの同期の打建てた金字塔が母校の玄関で顕彰され続けて欲しいという、33期のわがままな想いもあります。
今でも当時のメンバーは、山形先生のご自宅に遊びに行ったり、毎年のように正月にはゴルフをしたりしているそうです。山形先生の厳しくも愛情あふれるご指導が、高校日本一という偉業とその後のうらやむような師弟関係を築いたのだと思います。
山形先生、これからも健やかにお過ごし下さい。
津苑会ホームページ委員 田代 豊(33期)記
“山形久先生<喜寿祝賀会>とハンドボール部インターハイ優勝への軌跡” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。